その日までの覚え書き

with肺がん、脳腫瘍闘病中の日々

感謝 自分の両親 父

《父親》

1927年(昭和2年)5月17日生まれ

父について、心に残ってることを書いておきます。

見た目もカッコよかったし、お洒落な人でした。写真も探せば、何枚も残ってるに違いないです。写真撮られるの、好きだったのかな。

お仕事は、名称が変わったけど、今も名古屋市港区千年にある、(旧)住友軽金属に勤めていました。

 

学生社会の教科書「昭和の暮らし」に出てくる、あのちゃぶ台で、一緒にご飯食べてました。ほんとにドラマみたいに、突然、声を荒げて、ちゃぶ台がひっくり返るということもありました。

 

子どもの頃、ずっと漢字変換できてなかったんですが、「かみこーち」いくって、しょっちゅう言ってました。「神コーチ」とか、変換してしまい、なんか特殊なお仕事にでも行くのかな、と思ってましたが、長野県の「上高地行く」だったわけです。

東北旅行も好きだったようです。恐山の写真は、ほんとに色々写ってて?怖かったです。

ていうか、今の自分が好きな地域は、父が語っていた地域と見事に被っています。小さいなりに話を聞いて、憧れていたのかもしれません。

三重県御在所にも、石拾いに連れて行ってもらいました。名古屋市瑞穂区牛巻の商店街に増えてきた喫茶店には、しょっちゅう一緒に行きました。

自分が何を飲んでいたかは覚えていないんですが、私はミルクピッチャーが好きで好きで、飲み物より、そのピッチャーを「絶対欲しい」って、我儘言いたい放題だったと思います。

今でも、ミルクピッチャー大好きなんですが。

f:id:meadow12:20220810114943j:image

夏休みの自由工作も、よく一緒にやってくれました。

 

常にお洒落で、創造的で、何と「名古屋モード学園」が開校されてまもなくの入学生だったのでは、と思います。会社から帰ってきて、作品作りしてました。

あ、レタリングも習ってました。テキスト見せてもらって、憧れてました。

改めて考えてみると、ほんとに昭和初期の人にもかかわらず、モダンな人でした。

定年前に、脳梗塞で倒れてしまい、早くして亡くなってしまったけれど、大好きな父親でした。

色々なことを教えてもらったけれど、勉強しろと言われた覚えは一度もないです。